以下は、次のURLに掲載されていた Sharon Sobotta氏による新聞記事の日本語訳である。
http://www.mnnewspapernet.org/Journalist%20Fund/Sharon/sharon10.html (現在はリンクが切れています)

Fujita

September 2
Sharon Sobotta

「人生において、学ぶことや、新しいことを覚えることへの興味を失ってしまったとき、私たちは老いてしまうのでしょう」
最近大学に戻った Mika Fujita (30) は、そう言った。

Fujita は多くの日本女性から「ラッキー」と思われているのかもしれない。
化学会社に就職し、後にはベンチャーカンパニで働いた。
しかも、彼女はさらに求めたのだ。(彼女のような経歴を持つ日本女性はわずかだろう。日本では多くの女性が結婚するまでの間だけOLとして働くというのが一般的だからだ)

家族の食堂を手伝いながら、彼女は自分の将来のことを考えていた。
そんなとき、常連客のひとりから地域の日本語教室の手伝いを頼まれたのだ。
初めての日本語教室は少し期待はずれだったのかもしれない。
しかし、今では少しも後悔していない。

「私は文法についてちょっとは知っていたので、最初は、英語を教える手助けになれば・・と考えていたのです」Fujitaは言った。
Fujitaは日本人である。それゆえ、文法について考えること無しに自然に日本語を話すことができる。まさか日本語を教えるために「技能」が必要であるとは思いもしなかったのだ。

「でも、教室で座っていると、だんだん判ってきました。そして、日本に住む外国の人々が対処しなければならないいくつかの問題点が見えてくるようになったのです」Fujitaは言った。
彼女は、アメリカ人とアジア人の「やり方」は同じではないこと発見し、二つの文化、二つの言語といった移住(帰国)家族の苦悩に気づく。
そして、日本で生活し、働いている人々にとって日本語は絶対的な要素であると結論づけることになる。
「1998年4月、秋田で会議に出席した後、これらの問題は秋田だけではなく日本中で起こっている。誰かが行動をおこさなければ、事態は何も変化しない・・と思ったのです」

彼女は現在、東京の大学院で批判的教育学/社会教育学(言語学)の研究を行ない、合衆国のESL(第2言語としての英語)話者が直面する問題に関する論文を書いている。
また、ひとりの社会人としてボランティアの日本語教師や合衆国ESL学校のオブザーバを務めている。

Fujitaは、日本社会の一員としての外国人が直面する問題についての社会的/言語的なより深い分析と、その問題解決のための考え方の両方を明らかにした。
特に関心を持っているのは、多くの子どもが日本に到着した後に経験する同化の過程である。
「学校に行けば、囲りには多くの日本人の子どもがいますから、彼らの両親よりも速くたくさんの日本語を得る傾向があります」Fujita は言う。
そして、日本語の上達によって母国語を忘れてしまい、両親とのコミュニケーションを困難にしてしまう場合もあるのだ。
そして、両親のことをマイナスのイメージで見始めてしまい、彼らの文化的同一性の接点は失われてしまうことになる。
Fujitaはそう説明した。

アメリカ人であるKurt Carlson(妻、子ども2人と共に2年間秋田に住んでいる)は、おそらくFujiitaのいう概念を理解することができるだろう。
Carlsonと彼の妻はハワイで出会い、来日までの約5年間家族と共にそこに住んでいた。その間、家族は主として英語を話していたが、日本に来ると彼の子どもたちは日本語を身につけ、今ではコミュニケートの大部分を日本語で行なうようになった。

Carlsonは日本語を勉強し始めたが、秋田で英語Cafeのバーテンの職を見つけた後はやめてしまった。
Carlsonは言う。「私は英語で子どもたちに話すのですが、子どもたちはそれに日本語で応えます」
「子どもたちは、私の理解よりも高いレベルで話すことができるので、私自身が愚かなのではないかと感じることもあるのです」

Fujitaは、こういう状況における人々は両方の言葉を学習することが重要であると言う。
「たとえ親がすぐ言葉が上手にならないとしても、子どもは、両親が彼らとコミュニケートしようと関心をはらっているのを知ることで安心するのです」
他のケースにおいては、通常両親の責任とされるものが、子ども側の責任になってくる。
「家族のために社会的なサポートをすることが子どもの役割の一部になっています」Fujitaは言った。

中国、北京から来た23歳のMeau Wan(東京の工科大学で音楽を研究している)は、日本に来てから急速に成長したと言う。
家族のなかでひとり流暢な日本語を話せる者として、Wanは大きな責任を持つことになった。

詳しくは語らなかったが、彼は大学に通い続けるために、新聞会社で朝夕の新聞配送準備の仕事をし、わずかな給料を家賃にあてている。
Wanの両親は1994年に秋田にやってきた。現在は工場に働き口を得て、息子の学業を支えている。
Wanと彼の父は、大学の日本語教室に入る前に約1年間公民館で日本語を学習した。
彼の父は、ほとんどの状況でなんとかやっていくことができるくらいの日本語を身につけることができたが、母親は一回参加しただけでやめてしまった。
「私の父はもう長い間、同じ工場で働いているが、母は異なった工場を転々としていて、父はそれを不安に感じているのです」とWanはうち明ける。

「父(52歳)は、雨が降る日も重機の操作や重い荷物の運搬のため屋外で仕事をしています。しかし、父が受け取るボーナスは他の従業員よりもはるかに少ないのです」
Wanは父親の健康を心配するが、彼自身、父親の収入が家族を養うのに必要であると認めざるを得ないのである。
「もし、私たちがまだ中国にいるならば、私はまだまだ子どもでいたでしょう。ですが、今では、両親の方が忠告を求めてしばしば私に電話をするようになっています。
私がいなければ、両親はうまく暮らしいてくことができないでしょう。
それがとても心配なのです」そうWanは言った。

この3か月間のシリーズ記事は、WanやCarlsonのような人たちの問題とFujitaのような考えを探究することによって、単一文化の国においては外国人が「部外者」になってしまうような問題を アメリカをはじめとする多文化の国の人々に提示できたと思う。
ふたつの文化と言語を持つ家族の苦闘、外国人同士のカップルの関係、移住児童の経験、外国人労働者の辛苦、国際留学生の文化的学習の過程、そして、異国にある外国人を助けるために一般民衆との交渉などを行なっている現地の人々、それらについて研究することによって、苦悩のいくつかを理解するのは、おそらく、より簡単になるはずだ。

Fujitaは、より多くの人々が、99パーセント日本人の国としての日本がどれくらい多文化的であるのかを認め始めれば人生の品質が向上すると予測する。
「異なった年齢の人々、日本の別地域から来た人々、異なった家庭で異なった経験を有する人々は、それぞれ異なった考え方、あるいは異なった生活習慣を持っています」
そうFujitaは言い、文化は民族や人種に制限されるべきではないと説明した。

言語文化がどれくらい広範囲にわたっているのか理解しないまま皆一緒くたにして、他の国から来た人々が皆同じであると仮定するのは簡単だ。
Fujitaは言う。「私たちは、彼/彼女は何人(nanijin)だから・・と言うようなことはせずに、ケース バイ ケース で その人を見る必要があるのです」

日本や合衆国への移住者の前に立ちふさがるいくつかの労苦に迅速な解決法はない。しかし、Fujitaは確信する。現地の人々(ネイティヴ)と外国人の側どちらにも努力するための責任があるのだと。
「他の人がやるべきだとか、やるべきでないとか言うよりも、まず私たちが自身の役割を認識するべきでなのです」Fujitaは言った。
「そして、私たちは、どうすれば事態をより良い方向へ向けることができるのか、自分自身に問いかけるべきなのではないでしょうか」
Fujitaはそう熱く語り、微笑んだ。

(C)2000 Sharon Sobotta
日本語訳: by Tada

秋田県能代日本語学習会の実践記録

地域日本語フォーラム実施要項 (秋田県ボランティア・市民活動支援助成金交付事業)

東京学芸大学 国際教育センター


BACK to KPI FRONT PAGE