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能代 NOSHIRO

Present Emblem of Noshiro City 新能代市 市章

(旧)能代市は、平成18(2006)年3月21日に隣町である山本郡二ツ井町と合併して(新)能代市となりました

能代(のしろ)の地名が歴史に初めて登場するのは、日本書紀(658年)であり、そこには「渟代」と記されています。ご存じのとおり「日本書紀」は、日本最古の歴史書であり、能代(渟代)は最初から登場しているわけです。驚きですね。

ところで、なぜこの地が「渟代(ぬしろ)」なのかは明らかではないようです。「渟」とは、「ぬ」と読み、「沼」も「ぬ」と読むことからもともとは「沼」あるいは沼に関係する地名だったのではないかと推測していたのですが、やはり地名となるとアイヌ語の出番でしょう。なんといっても、阿倍比羅夫が当地に来たとき、渟代は蝦夷(えみし)の土地だったのです。

で、アイヌ語の音に大和言葉(+漢字)を当てはめるということになるのですが、なにしろアイヌ語には文字がない。いろいろな組み合わせが考えられるわけですが、一番それらしいのが「ぬ (nup-sir)」です。しかし、アイヌ人の発音だとこれは「ぬ」と聞こえそうな雰囲気です。もしかすると「ぬ しろ (nup-sir-o)」かもしれません。
「ぬ (nup)」は、「草原」「原野」。「し (sir)」は、「大地」「山」。そして「お (o)」は「裾」という意味があるようです。

「ぬ しろ (nup-sir-o)」ということになると、能代の語源は「草原の山裾」なのでしょうか。なんか子どもの頃花園町方面にあった「ぼんず山(坊主山?)」を思いだしてしまいました。(^^;) ま、ぼんず山は関係ないでしょうが、もしかしたら東雲(しののめ)台地のことかもしれないな・・・なんて思っています。

なお、アイヌ語の「ぬ (nup)」という音に「渟」の字を当てたのは、米代川の洪水が関係しているのではないかと思われる沼 (当地では「ガマ」と称していました)が多くあったからではないかとと想像していますが・・・
(現在は埋め立てられて宅地化しているところもありますが、まだ残っているガマもあります)

続日本紀(771年)では、「野代」という記述があります。
日本書紀の記述から約100年、「渟代」から「野代」に変わった理由も定かではありません。

この後「野代」時代が1000年近く続きますが、1704年の宝永地震の後、よく知られているように「野に代る」と読めることが縁起が悪いということで、よく かわる』の 能代 と改称されました。

渟城」という名詞が現在も残っていますが、これは「ていじょう」と読みます。
地名としての渟城は、もちろん「渟代」から派生した呼称なのでしょうが、いわゆる旧能代港町の中心部を指すのではないかと思われます。
しかし、現在では「渟城」を冠した渟城西、渟城南の2小学校、Former Emblem of Noshiro City八幡神社の宮司である渟城家(渟城幼稚園)、農業行政上の地域区分(農業協同班)にその名を残すのみとなっているようです。
(市立第四、第五小学校もありますが、こちらには「渟城」は付きません。なお、渟城第一〜第三の3小学校は、平成19年4月、渟城西と渟城南の2校に再編成されています)

「渟城」という名称はすくなくとも安土桃山までの史料には登場せず、能代市 市史編さん室 でたずねてみたら、やはり江戸後期(末期?)の成立ではないかというお話でした。


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